僕が初めてアートに面白みを感じたのは小学生の頃、美術の時間に描いた水彩だったと思います。
たくましい妄想を自由に表現することができる「絵」というものにどハマりし、家だろうと学校だろうと時間があれば、てんとう虫の自由ノートにヘッタクソな絵をたのを覚えています。
といっても、子供の頃の僕は色々なことに興味を示していたので、絵が特別なものだったのかと言われると、そうじゃなかったかもしれない。
絵にハマったのは数ヶ月程度で、近所のスポーツクラブに入ってからは全く絵を描かなくなりました。
僕は50m走8秒台と、運動神経は絶望的でしたが、ダンスとかリフティング、逆立ちみたいな「複雑」と言える動きを真似ることは得意だったと思います。
形を真似ようとすると動きが硬くなるので、腕や足など全体の動きを1つの動きとして捉えて、完成さた後からまた分解し、個の動きが理にかなっているか答え合わする。というのが僕のやり方です。
うまくはいえませんが、この時のイメージの現像化は絵を描く際にもちいたソレと同じような感覚でした。
形を真似ようとすると、うまくいかない。
それが分かっていたので、癖のない子供の指導には「足を前に、後ろに」とかではなく「大きく」とか「小さく」、呼吸のリズムみたいな抽象的な言葉であえて指導をしていました。
うんちゃっちゃ うんちゃっちゃ
ドラマとかでは天然な主人公が「ババーン」みたいな擬音でザックリ説明するボケがよく見られますが、僕はそれをリアルガチでやっていたということです。
また、自分にとって必要なトレーニング内容をデザインしていくことも絵のデザインと通ずるところがあったのですが、それを言葉として表すことがどうしてもできませんでした。
本当に大事と思う話しを丁寧に説明しようとして、逆にグチャクチャになることがよく起こっていたのです。
しかし、なかなか理解されない状況を、「仕方ない、なぜならこれは僕の中の概念なのだから、言葉にすることは不可能だ」と開き直ってしまっていたところがあります。
そんなこんなで昨年の夏頃、写真家として活動するこ都に決めました。
僕は何事にも根本から始める方が長期的には近道だという確信に似た持論を持っているので、「そもそもアートとはなんなのだろう」と考えるようになるのに時間はかかりませんでした。
最初は、いい写真を取るためのヒントが見つかれば、という気持ちで読み進めた1冊の書籍でしたが、それが僕にとって衝撃的で、その時の感想としては
「それそれそれそれ!!」
「わかる〜〜〜〜!」って感じでした。
アートとしてのデザイン論を行為としてのデザインに落と仕込むという考え方。
それは僕がこれまで頭の中にあったモヤモヤとしたものが、これでもかと言語化されていたのです
そうか、これらは言葉にできるのか。
また言語化されたことで、なんとなくやっていた「アート思考を仕事に取り入れる」ということを、より鮮明に行えるようになりました。
「どんなにいいコアアイディアがあっても、言語化できなければ結局それは実現されない。」
どこかで聴いた言葉がゴリゴリ刺さります。
アート思考の考え方は絶対に言葉にはできない、理解されないと諦めていたけど、それが出来ると実証して見せてくれていたのです。
しかし、僭越ながら「やっぱりその表現違うんだけどな〜」と思うことも多々あります。
例えば、最近よく耳にする「クリエイティブ」
「その場面でのクリエイティブ、間違っちゃいないけど、ちょっと大雑把なんだけど」と思う場面がけっこうあるのです。
だけどこの違和感も、きっと言葉にすることができるはずで、それをすることはとても大切なことだと思っています。
今の僕にはそれを言葉にすることはできませんが、できるようになるまで申し訳ないうですが少々待ってください。
必ず大事で面白い話をしますから。
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